事の始まりは義姉の突然の結婚からだった。
私は当時、ロサンゼルスの日系TV局のプロデューサーをしていた。
小さな放送局なので製作から営業、取材、編集と週末返上で走り回っていた。
ロサンゼルスには南加日系県人会協議会という組織があり、その傘下で41の県人会が活動している。
ある日、有力県人会のひとつ南加福島県人会の100周年記念式典にビデオカメラを担ぎ取材に行った。舞台正面のVIP席に私の義姉が座っている。福島県出身でない彼女が福島県出身の名家国府田ファームのファミリーメンバーとVIP席を共にしていたのだ。「何で?」怪訝な気持ちになった。
国府田ファミリーとの縁を義姉が取り持った。
日系移民の歴史の中で伝説的な人物国府田敬三郎の孫、Ross Koda と義姉が縁あって結婚した。国府田ファームの創設者で戦前、戦後と迫害を受けた日系移民の一人として、公民権運動に立ち上がった国府田敬三郎の生き様にとりわけ惹かれていった。元々、日系人の歴史に興味があって日系歴史映画の製作にも関わっていた。
数年後、製作中の映画Toyos Camera というマンザナ収容所を舞台にした日系歴史映画の協賛を得ようと営業に奔走していた。
当地にはJBA ( Japan Business Association of Southern California )という当地に進出した日本企業の親睦団体がある。団体活動を通して親しくさせて頂いたNitto Tire の木畑CEOに協賛をお願いしていた。
木畑CEOは二つ返事で快諾してくれた。同時に勢いに任せて国府田敬三郎の映画を作りたいと胸の内を伝えた。企画書もないのに思いのたけを一気にまくし立てた。木畑CEOは「私の親友が国府田敬三郎さんの隣町の出身で、彼を崇拝している。敬三郎さんの話はよく聞いていたよ。 岡野君が近い将来に撮る事になったら必ず応援するからね」と言ってくれた。
木畑CEOの親友という人物が後日、映画Seed のCo- Producer に就き、日本ロケを全面的に応援してくれた。元日立製作所USA代表の井出 英夫氏だった。
その数年後、突然の病で木畑CEOは亡くなってしまった。映画制作の夢は夢に終わりそうだった。
サラリーマン プロデューサーに限界を感じた私は次の就職先も考えず衝動的にTV局を辞めてしまった。家内は愚痴の一つも言わず、趣味で始めた国府田オーガニック米の販売を本格的に始めた。
彼女はお米という食品に異常とも言える愛着を持っていて、種々の炊飯器を日本から持参、炊き方の研究をしていた。
姉の嫁ぎ先の国府田オーガニック玄米を口にした途端、すっかりとりこになった彼女は炊飯器を担いで米の販促活動にのめり込んでいった。白米全盛時代に日系コミュニティーの人々の健康を思い敬三郎さん自身も炊飯器を担いで玄米の普及活動をしていた事を後で知った。
失業中の私は家内の販促活動に参加せざる得なかった。私たちはファーマーズマーケットへの出店チャンスを得た。
夫婦で二手に分かれLA中のファーマーズマーケットで国府田オーガニック米の販促活動に没頭した。何かに取り憑かれたように声を枯らして売りまくった。
白人富裕層に支持されたオーガニック米は順調に売れ始めた。家内も私も自然に敬三郎さんの写真を店に飾り、毎朝手を合わせるようになった。
ある日、一人の女性が現れた。店前に飾ってある敬三郎さんの写真を指差し、
「国府田敬三郎の映画を製作したいと思っています。協力して頂けませんか」と言った。「得能 愛です」と名乗った。木畑CEOと同じNitto Tireの社員で、ヒーローズという日系偉人の歴史を次世代に残すプロジェクトに関わっていた。得能さんは私がフィルムメーカーである事など全く知らなかった。米屋のオヤジなら国府田ファームに渡りをつけられるだろうぐらいに思い声をかけてくれたようだ。
話はトントン拍子に進み映画製作は始まった。
義姉の結婚、亡くなった木畑CEO, 井出 Co-producer、国府田オーガニック米に魅せられた家内、Nitto Tireの得能さんらの不思議な縁でこの映画は製作されている。
構想から制作開始まで約10年の歳月が流れた。天国にいる敬三郎さんが最近天国に引っ越してきた木畑さんと、空から私たちに種を蒔きこの運命の糸を操っているような気がしてならない。